子供の勉強部屋

入試問題からみえるもの

ポリシーなき入試問題は最低だ!

 今回は、入試問題とはどうあるべきか? など、つらつら考えていきます。かなり長くなります。覚悟して読んでください。
 まず2009年度の東山中の社会の入試問題を見てみます。本文からきちんと読んでほしいのですが、もしめんどくさかったら次のページからでもかまいません。実際の受験指導においては、あまり本文を読ませることはありません。社会の場合、本文に設問のカギがあることはまれです。もちろん、本文にカギが隠れている問題もありますし、そういう問題こそが良問なのですが、この問題については関係ありません。

 次の文章を読んで、各問いに答えなさい。
  わが国が世界にほこる文化のひとつに、刀剣があります。わが国の刀剣が日本刀とよばれるようになったのは、平安時代後期の武士の活躍にしたがって現れた太刀からであり、当時を代表するものとしては、源頼光が大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)を斬ったとされる「童子切(どうじぎり)」などがあります。そして、@12世紀に武家政権が樹立され、武士の社会的進出がいちじるしくなると、刀剣生産も増え、全国に名工とよばれる刀鍛冶(かじ)が現れました。なかでも室町時代初期から応永年間までに生産された「備前長船(おさふね)」が、その品質からも珍重され、A明への重要な貿易品として扱われたことは有名です。応仁の乱が起きてより、急激な需要の高まりに応じる必要性から刀剣の増産がはかられ、数多くの粗悪品を生み出すことになりましたが、B戦国時代の武将が自身の命をあずける刀剣を特注する「注文打ち」が流行してからは、孫六兼元(まごろくかねもと)・和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)・伊勢村正(いせむらまさ)などの名工が輩出され、江戸時代に至って、わが国の刀剣の品質は、国内の実用品としても、海外取引物のための工芸品としてもその価値を高めました。
  日本刀の品質は、C北宋の詩人欧陽脩(おうようしゅう)が「日本刀歌」で表したように、その簡素にして優美な姿や柄・刃に施された装飾だけでなく、それが本来もつ武器としての能力、いわば折れず、曲がらず、よく切れるという高次元の能力こそが評価されていたのです。そして、この能力を生みだすためには、わが国独自の「たたら吹き」製鋼法で生みだされる「和鋼(わこう)」「玉鋼(たまはがね)」とよばれる、諸外国のように、鉄鉱石を原料として生産される不純物の多い鉄鋼ではなく、豊かな火山岩を保有するわが国ならではの、砂鉄を原料として生産される不純物の少ない鉄鋼が不可欠だったのです。
  わが国で鉄器の使用がはじまったのは、D弥生時代後期とされており、主として食料生産をになう農耕具として、あるいは倭王武の上表にみられるような武具として使用されました。その一端は、E5世紀頃に見られる各地の豪族の墳墓や皇族の巨大古墳の埋葬品からもうかがえます。しかし、そのすべてがわが国で生成された鉄器であるとは言いがたい面があります。F『古事記』『日本書紀』の神代(かみよ)の伝承によれば、山間の自然通風を利用して、鉱山より採掘してきた砂鉄を集め、輔(ふいご)(吹子)という鹿の一枚皮でつくった送風機を用いながら何日も燃やし続けて製鉄した、と伝える記録があります。これは古代の遊牧民族タタールの製鉄技術やG江戸時代の探検家間宮林蔵が『北蝦夷図説』で紹介するアイヌの製鉄技法に近いもののようで、この記録を信じれば、大和朝廷以前にはすでに「和鋼」「玉鋼」を生成する技術があったということになるのですが、史料的性格からそこまで確信をもっては言えません。ただ、少なくとも『古事記』『目本書紀』の編纂がはじまった天武天皇の時代には、それら製鉄技術が存在していたのでしょう。
  さて、律令国家形成期にあたる7世紀以降の様子をみると、H万葉歌人山上憶良が描く、重税に苦しみ土地を捨てて浮浪する人々からは、鉄製農具をふるって食料増産にはげもうとする姿はみえません。むしろ『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、藤原仲麻呂らのような有力貴族が砂鉄や鉄鉱石の採集できる鉱山を競って獲得したり、I『養老律令』には、毎年の報酬として官僚に鉄鍬と布が支給されたりする記録が散見され、本来、律令国家完成のために支給されるべき鉄製農具は、農民にではなく、貴族や官僚に渡っていた様子がうかがえます。それは鉄が貴重品で、政治権力と富の象徴であったからです。そして、製鉄を独占した有力者は荘園開拓を独占して不誠実な経済をうみ、律令国家崩壊の原因ともなりました。ただ、鉄は単なる政治権力と富の象徴だけで終わるものでなかったようです。鉄剣生産の由来として有名なJ『出雲風土記』にある八俣遠呂智(やまたのおろち)の伝承に注目すると、室町時代の学者K一条兼良(かねら)や江戸時代の学者L新井白石・M本居宣長らが諸説を論じておりますが、なかでも江戸時代の国学者平田篤胤(あつたね)などは、『古事記』N『今昔物語』などで紹介される、鉄剣とそれにまつわる「竜蛇信仰」に着目し、遠呂智は蛇という霊力の象徴で、鉄は霊力を秘めたものと考えられていたのではないか、遠呂智を退治して得た「天叢雲剣(あめむらくものけん)」が神聖な霊力をおびた鉄剣として霊威的価値をもったのもそのためではないか、という興味深い見解を示しています。このような鉄剣への信仰を考えれば、わが国の製鉄技術者が、「和鋼」「玉鋼」の精製をきわめ、銘刀を精錬するという行為は、単なる道具の製造という域を越えて、みずからの魂を刀剣に宿らせ、霊威的価値を高める崇高なものとなります。そして、このような霊威的価値をもつ銘刀が生まれると、それは単なる刀剣に比べて高い付加価値がつき、その価値を求めて、時の有力者は製鉄活動を積極的に保護したのでしょう。 こうして形成された高度な製鉄技術は、O16世紀に伝来した鉄砲の改良と生産を可能としましたし、17世紀に出雲のたたら場で発明された「天秤(てんびん)吹子」の導入は、それまで多くの労働力を必要とした「踏みたたら」「横差し吹子」のような能率の悪い生産性を改善し、少ない労働力で鉄の大量生産を可能とするまでになりました。その生産技法は、P19世紀に各藩で設備された反射炉での大砲鋳造にも転用されました。このようにして開発された鉱山やたたら場は、明治政府のもとで統合的に管理・運営され、釜石に官営製鉄所が設置がされると、近代国家形成のために必要な大量の鉄生産をめざして動きはじめましたまた。Q日清戦争にて鉄鋼生産不足の場合におこる危機感を経験してからは、鉄生産の重要度はさらに高まり、明治34年(1901)には、R官営八幡製鉄所が創設されました。そして、S日露戦争の勝利に応じて軍備増強と各種重工業がさかんになると、八幡製鉄所の生産力は創設当初の9万tから16万tへと高まったといいます。
  現在、高度経済成長を経た我々の庶民生活では、各種生活用品の各所に鉄が使用され、わが国の発展を支えてきた製鉄はたいへん身近なものとなりました。ただし、そこに至るまでの製鉄技術向上の背景には、単なる科学技術の発展で終わらない、わが国独特の鉄に対する価値観がおおいにはたらいてきたものと考えられます。

<ルビは入試問題に準じて入れました。>

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